日記のようなエッセイのような

タイトル通り日記やエッセイ。頭の中の記録。

LGBTイベントの浜崎あゆみさん

今日、東京・代々木公園の野外ステージで行われた日本最大級のLGBT関連イベント『東京レインボープライド2018』のメインイベントに浜崎あゆみが出演した話題。

こういうイベントに浜崎あゆみさんが出演することは珍しいのでは?

そのステージでは全7曲を熱唱。

これはファンだけではなくとも見てみたいと思う人も多いだろうね。

実際すごい人数集まったみたいだけど。

 

曲の間に語ったLGBTに対する想いがとても良いと思った。

デビューしたての頃生きるのが辛くてどうしていいかわからない頃に新宿二丁目に通い始めて救われたと。

嬉しい時、喜怒哀楽を全て二丁目の仲間たちと過ごして来たから今があると。

ここでなぜこのイベントに参加したのかが理解できた。

 

「国内でのLGBTへの認識についても触れ「まだまだ日本はコンサバティブ(保守的)ですから、マイノリティーが間違い、社会的弱者というイメージが拭えないという部分はあります。でも、マジョリティーが勝ち組で正しいということはないと私は思っています、これから先も生きるのに肩身が狭くなったり諦めたりする瞬間があると思いますが、この日のことを思い出してください。ずっとずっと自分に誇りを持って進み続けていってほしいと思っています。私もマイノリティーのひとりとして、みなさんと一緒にこれからも一緒に歩ませていただきたいと思っています」と力説した。」(oricon newsより引用)

 

この話がとても良い。

特に「マジョリティーが勝ち組で正しいということはない」という部分。

実際そう感じないことも多い。

でも日本人の特徴なのか型にはめたがる人たちはそれを正しいと勝手に思っていて、最悪自分が一番正しいと思っているような人はそれを強要してくる。

「みんな違ってみんないい」という言葉や「世界で一つだけの花」の歌がもてはやされても、優しい言葉で語られた一過性の流行ものでしかなく理解しているようで深くは伝わっていないように感じる。

結局、その言葉や歌を自分に向けているだけで他人には向けれていない人も多いのではないのかな?

みんな大好きマツコデラックスも有名人でもなんでもなければ、例えば電車の同じ車両に乗っていたりしたらどれだけ痛い視線を浴びせられるか想像がつく。

有名人になり人気者になると途端に認められる風潮も変だ。

しかもその人限定でマツコが人気者になったからといって同じような人たちが認められるわけではない。

世間に少しでも認めてもらう力にはなっているだろうけれども、実際本人たちはどう感じているのだろうか?

そもそも「認めてもらう」という感覚もおかしい。

身近にいたりすることが当たり前の存在になれたら一番良い。

 

そして私が気になったのは「私もマイノリティーのひとりとして」という言葉。

浜崎あゆみさんのいう自身のマイノリティーは何だろう?

確かに一度でも日本のトップに立った人間とういう立ち位置、一般の人とは違う生き方などはマイノリティーかもしれない。

でもマイノリティーってそういう事だっけ?

広い意味ではマイノリティーか…

何か違う捉え方や思いとかあるのかな?

これはちょっと気にかかる。

彼女は生きにくいと感じていることが何かあるのかなと。

全て手に入れたように見えるけどそれと引き換えに失ったものもたくさんあるんだろうな〜…