みんなで一緒にの呪い(笑)
前回のブログに書いたフジテレビのオンデマンドで一気見した「久保みねヒャダ こじらせナイト」。
この番組の中で印象に残っている話。
「運動の出来る人はモテたり人気者になるのにそれに比べて勉強が出来る人はそれを隠したりしなければいけなかった」というもの。
テストでいい点をとってもそれを発表されたりなんかすると微妙な空気になったりと確かにそうだったかも...
この番組のメインの三人は運動が苦手で体育の授業も苦痛でしかなくいい思い出が全くないと。
「勉強が不得意でテストで点数が悪くてもみんなの前で発表されないのに、体育の授業はみんなの前で恥をかかせられる」
「野球やサッカーなどの時にグループ分けをされて自分がいると嫌な顔される」
「できる人にとっては簡単でも苦手な人にとってはお手本を見せられても全く分からない」等々…なるほど。
番組内でも三人でこの話で盛り上がり体育に対する恨み辛みの川柳を募集するコーナーまでやっていました。
自分自身は比較的体育は得意だったのでこの話は共感はできないものの目からうろこ。運動が苦手だった人はこんな気持ちだったのかと...
でもこれって運動が得意不得意の問題ではなくてこの授業のやり方が問題なのでは?と思う。
ヒャダインは大人になってから運動すると気持ちがいいと知ったとか。
体育の授業が嫌いだと運動まで嫌いになったり苦手意識を持ってしまう。
これはとても問題だと思う。
内容は「学校の休み時間にみんなでドッヂボールをしましょう」と言われて嫌だったというもの。
これが当たり前だと思って学生時代を過ごしてきたので特別疑問に思っていなかったけど大人になってこの話しを考えると疑問に感じる。
「みんなで」と言う言葉の呪い(笑)
そのせいで自分の意見が持てない人の多いこと。
人と違うことはおかしい、間違ってるという教育。
周りを気にして合わせて生きてきたら大人になって「自分らしく」なんて言われてもどうしたらいいか分からないよね...
できる人はそんな事言われなくても自分らしく生きてるだろうし。
でもこれはきっと無意識にそうなってる。
仕事してても自分の意見が無い人も多いし、なんなら考えても無くて言われるがままにしか動けない人も多い。
そりゃストレスもたまるよ...人任せでも不満はあるわけだし。
子供の時から自主性を大事にする教育ができたらもっと楽に生きれる人が増えるかな?
もっと自分の個性を思い切り楽しむことができるようになるかな?と時代は変わってもいろいろ考えさせられる。